神楽です。
5月に入り、4ヶ月にも及ぶ長い間隙がありましたが
いよいよ待望の春イベントが近付いて参りました。
IFイベントということで決定的な情報は未だ出ておりませんが、
北方泊地周辺の警戒・警備から始まるということや
コロラド級の実装、機動部隊精鋭での長駆遠征
といった端々の要素は揃ってきています。
ここのところの艦載機にまつわる強化が続いていることや赤城改二が待っているもあり、
やはり三度目の真珠湾攻撃に収束する可能性が高い
のではないかという声が強いものとなっています。
北方泊地から始まるというのにも合致しますしね。
そうなると、同じ方面への進出で北方海域も絡むとなれば
否が応でもAL/MI作戦が頭をよぎるのも当然な話となってきます。
真珠湾攻撃とミッドウェー海戦をクロスさせるとなると
とても中規模では収まらないとは思うのですが、
前段作戦でアリューシャン方面での一連の戦いを加味させるくらいならやれるとは思うところです。
そもそも、ハワイまでの道すがらにミッドウェー島があるので
基地航空隊のエアベースを構えるのに丁度良い
……というのは浅はかで、
ミッドウェー島とハワイ諸島までは2000km以上も離れているという。
かの2016年春イベントでの基地航空隊実装時には、
E-7最終海域のエアベースはもっと近いジョンストン島からでしたし。
ジョンストン……また数奇な名前ですね。
ちなみに、その南の方にはジャービス島なんてのもあったりします。
あと、2015年夏のミッドウェー海戦では
本土強襲という横槍を食らってしまって
一航戦・ニ航戦の本懐が中途半端になってしまった感もあるので、
今度こそキッチリとカタを付けたいところではあります。
というわけで、ミッドウェー海戦を絡ませるにしてもそこを陥落させてから
基地航空隊を飛ばすのは不可能ではないにしても、相当な無理を強いることになるでしょう。
――もしや、そのための
ゴールデンウィーク限定の秋津洲ドロップでしたかッ!?
真偽はどうあれ、
真珠湾攻撃となれば二式大艇ちゃんの出番は固いものかと思われます。
他にも無茶をすれば基地航空隊を飛ばせそうな場所はありまして、
それは2014年春イベントE-5海域のモチーフとなって、
今は通常海域6-4にもなっているウェーク島であります。
離島棲鬼・姫のいるアソコです。
……そういえば、2017年春イベでも北方海域に出張っていましたね離島ちゃん。
ウェーク島を巡る戦いは真珠湾攻撃の直後に行われたものですが、
輸送作戦や上陸作戦といった要素を含んでいるため、
ぶっちゃけ後段作戦の初っ端に入れやすいと思うのですよねぇ。
そっから前の真珠湾の時みたいに、ジョンストン島を攻略してからハワイへ行くルートでも良いのですし。
というわけで、ここまでダラダラと述べて参りましたが神楽の拙い頭で思い付いたところだと、
今度の春イベは真珠湾攻撃を成立させるために
アリューシャン方面の制圧→ミッドウェー島攻撃・攻略→ハワイ諸島へ
もしくは
ウェーク島上陸作戦を挟んでミッドウェー島攻撃・攻略→ハワイ諸島へ
というルートが考えられるのではないかと。
この後にも出てくるであろう情報にもよりますが、
本当に完全なIF作戦でもない限りモチーフとなるであろう海域・海戦はこれくらいだと思われるので、
少なくともコロラド級が絡む以上は
真珠湾攻撃を外すとは思えないのです。
――懸念があるとすれば、当然ながら真珠湾攻撃はやるとした上で
戦艦コロラドが退避していたアメリカ大陸本土にまで足を伸ばすという可能性です。
いや、確かにコレならば完全IFの戦いにはなりますけどね!
しかも、当時のコロラドは東海岸のワシントン州は
ピュージェット・サウンド造船所にいたのではなかったですかね?
そこまで行くとなると、パナマ運河を越えるために うんが! するか
南アメリカ周りや北極海経由――っていうか、
今なら欧州経由で大西洋を渡った方が手っ取り早いですね。
そもそも、アメリカ本土に行くという時点で中規模とは言えないわけです。
なので、やっぱりハワイあたりが妥当かなと思うのですよ。
――そういうわけなので、
真珠湾攻撃を始めウェーク島攻撃および
AL/MI作戦に関する戦史や参戦した史実艦
について簡単に述べてみようと思います。
真珠湾攻撃(1941年12月7~8日)
参加艦艇
南雲機動部隊
第一航空戦隊(司令長官・南雲忠一中将 参謀長官・草鹿龍之介少将)
旗艦・赤城 加賀
第二航空戦隊(司令官・山口多聞少将)
旗艦・蒼龍 飛龍
第五航空戦隊(司令官・原忠一少将)
翔鶴 旗艦・瑞鶴 秋雲
第三戦隊(司令官・三川軍一中将)
旗艦・比叡 霧島
第八戦隊
旗艦・利根 筑摩
第一水雷戦隊(司令官・大森仙太郎少将)
旗艦・阿武隈
第十七駆逐隊
浦風 磯風 浜風 谷風
第十八駆逐隊
陽炎 不知火 霞 霰
第一潜水戦隊(司令・佐藤勉少将)
伊19 伊21(未実装) 伊23(未実装)
概要
当時の日本が、アメリカ合衆国に対して戦端を開いた戦いです。
禁輸政策や大陸からの撤退を強要され、起こるべくして起こったのが太平洋戦争とされていますね。
アメリカの太平洋艦隊はハワイ諸島を一大根拠地としていたため、
これを緒戦で一気に叩いてアメリカの海洋戦力を麻痺させ、
戦況を可及的速やかに優勢に進めてあわよくばアメリカ本土にまで手を伸ばし、
同国民の厭戦感情を煽って早期講和に結び付ける――という割りと無理筋な青写真でありました。
当然ながら様々な要因によってその計画は水泡に帰し、
逆に最終的には聯合艦隊の壊滅、組織的海軍戦力の消滅を招き、
日本本土が蹂躙されることとなったわけですが。
少なくとも緒戦はイケイケであった日本軍でありましたから、
この真珠湾攻撃も一応は成功裏に終わりました。
……撃破したはずの艦隊が復活してきたり、港湾施設への損害が不充分であったり、
最大の障害であるオワフ島要塞は攻略困難につき手付かずであったりと、徹底性を欠いたとも言えます。
結局はハワイを抜けなかったことで早急に復旧がなされてしまい、
緒戦で与えたダメージが意味を成さなくなって
終戦まで根拠地としてのハワイの機能が失われなかったことが敗因の一つではあったのでしょう。
経過
11月26日、択捉島・単冠湾に集結し作戦決行を待ちわびてた南雲機動部隊以下の艦隊が、
ハワイ諸島へ向けて出港しました。
12月2日、「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の電文と共に作戦決行日が暗号発信されました。
12月7日未明、潜水艦隊から発進した甲標的を皮切りに、
日付が替わって8日1時30分、空母群から艦載機が発進し、戦端が開かれました。
なお、予定では攻撃前に宣戦布告が通達されるはずが遅れてしまい、
奇襲というカタチになってしまったというのは良く聞きますね。
3時22分、ハワイ上空に到達した攻撃隊の第一波は
「トラトラトラ(我奇襲ニ成功セリ)」のトラ連送を打電。
3時25分、遂に空爆が開始されました。
この急襲をアメリカ本土に知らせた電文が、
フィクションでも良く見る「これは演習ではない」の元ネタですね。
4時24分には第二波の攻撃隊が到着、空爆を開始し、次々と湾内の艦艇を攻撃して行きました。
攻撃隊はこの第二波までであり、
それ以上は激しくなる対空砲火と搭乗員の疲労に機体の損耗を鑑みて追撃は行われませんでした。
強力な要塞砲を備える施設はそもそも攻撃対象外であり、
爆撃の標的は水上艦に絞られていたため港湾施設への損害は比較的軽微なものに留まりました。
また、潜水艦隊に搭載された特殊潜航艇つまりは甲標的の発艦も行われており、
計五隻の甲標的が湾内に突入を果たしました。
結果としては四隻が撃沈、一隻が座礁・拿捕され、
全艦未帰還となりましたが内二隻は雷撃に成功したとされ、
戦艦ウェストヴァージニアとオクラホマへの損害に貢献したとされています。
真珠湾攻撃は艦載機による爆撃と雷撃、特殊潜航艇による攻撃に限定され、
随伴した戦艦・巡洋艦による砲撃は行われないまま終わりました。
要塞砲による被害を避けたのは確かですが、
被害を度外視した空爆の追加も行われなかったため、
良く言えば安全策、悪く言えば消極的な作戦行動であったとの評価がなされています。
何より、湾内にいると思われていたアメリカ空母群が不在であったことが、
後の戦局で後塵を拝する結果に繋がったとも言えます。
アメリカ艦の被害
この攻撃でアメリカの主要艦艇に与えた損害は――
アメリカ海軍太平洋艦隊(司令長官・ハズバント・キンメル大将)
戦艦
カリフォルニア(沈没→復旧) テネシー(損傷)
メリーランド(損傷) ウェストヴァージニア(沈没→復旧)
ネバダ(損傷) オクラホマ(撃沈)
ペンシルベニア(損傷) アリゾナ(撃沈)
重巡洋艦
ニューオリンズ サンフランシスコ
軽巡洋艦
デトロイト ロウリー(損傷) ホノルル(損傷) フェニックス セントルイス ヘレナ(損傷)
――といったものとなっています。
浅い湾内で大破着底した艦艇は修復・改修を受け、
特に戦艦群は後のレイテ沖海戦はスリガオ海峡夜戦にて
オステンドルフ艦隊として西村艦隊を相手に復讐戦を行うことになります。
してみると、アメリカの戦艦で戦時中に失われたのは
オクラホマとアリゾナの二隻だけになるのですね。
この被害を受け、アメリカは本格的に対日戦時体制に移行。
脅威の生産力でもって、またたく間に世界最強の戦力を整えていくことになります。
また、イギリスがタラント空襲やビスマルク追撃戦によって
既に航空戦力の威力を示してはいましたが
(日本軍も支那事変や真珠湾攻撃直後のマレー沖海戦で威力を発揮しましたが)、
この真珠湾攻撃での航空機運用によって大々的にその有用性が認められることになりました。
それまで世界中を席巻していた大艦巨砲主義が終焉を迎えたわけです。
ウェーク島の戦い(1941年12月8日~23日)
参加艦艇
第一次攻略戦
トラック諸島所属南洋部隊・第四艦隊(司令長官・井上成美中将)
第六水雷戦隊(司令官・井上成美中将)
旗艦・夕張
第十八戦隊(司令官・丸茂邦則少将)
旗艦・天龍 龍田
第二十九駆逐隊・第一小隊
追風(未実装) 疾風(撃沈・未実装)
第三十駆逐隊
睦月 如月(撃沈) 弥生 望月
第二十四航空戦隊
神威
第二次攻略戦
第六水雷戦隊(司令官・井上成美中将)
旗艦・夕張
第十八戦隊(司令官・丸茂邦則少将)
旗艦・天龍 龍田
第二十九駆逐隊・第一小隊
追風(未実装) 朝凪(未実装) 夕凪(未実装)
第三十駆逐隊
睦月 弥生 望月
ウェーク島攻略増援部隊
第二航空戦隊
旗艦・蒼龍 飛龍
第八戦隊(司令官・阿部弘毅少将)
旗艦・利根 筑摩
第六戦隊(司令官・五藤存知少将)
古鷹 加古 青葉 衣笠
第十七駆逐隊・第一小隊
谷風 浦風
経過
ウェーク島はアメリカ側から見れば、
本土→グアム島→フィリピン島を結ぶ線上にある重要拠点であり、
日本側から見れば、本土→マーシャル諸島を結ぶ線上にあるという双方にとって重要な場所でありました。
開戦前からこの島の攻略計画は進められており、真珠湾攻撃と同時に作戦はスタートしています。
攻略にあたったのは、トラック諸島を根拠地とする南洋艦隊第四艦隊でした。
上陸作戦であるにも関わらず、この作戦は海軍単独で計画・実施されており
海兵隊が上陸を担うことになりました。
この動きは当然アメリカ側も察知しており、
事前に空母エンタープライズが運んだF4Fワイルドキャット12機および
周辺の島々に砲台や機銃座を設置して要塞化が図られていました。
第一次攻略戦
まずは、基地航空隊による爆撃でウェーク島要塞を無力化する計画でしたが、
予想以上に堅固であったため、急遽二個中隊の増派が決定しました。
真珠湾攻撃の発動から遅れて3日、12月8日の開戦と同時に攻撃は開始されました。
5時10分、爆撃によって飛行場と砲台に損害が与えられ、駐機していたF4F戦闘機のうち
7機が全損、1機が損傷を受けました。
9日・10日にも空爆が加えられましたが、徐々に反撃が強くなってきていました。
10日夜に攻略艦隊はウェーク島沖に到着し、そのまま夜間上陸作戦を敢行しましたが、
天候が悪く高波(※駆逐艦ではなく)によって大発動艇の転覆・破損が相次ぎました。
ここで島への艦砲射撃に切り替え、3時25分に軽巡隊が、3時43分に駆逐隊が砲撃を開始しました。
4時には島の砲台から反撃が飛び、4時3分に駆逐艦・疾風に着弾・轟沈しました。
一度下ろした大発動艇や密集陣形で身動きが取れないところに、
島からの砲撃が降り注ぐという危険な状況を鑑み、上陸作戦は中止、撤退に移ることになりました。
砲台の射程圏外に逃れた艦隊でしたが、
艦砲射撃から退避するために上空へ上がっていたF4F戦闘機四機は
補給を繰り返しながらも九度におよぶ執拗な攻撃を繰り返すことになります。
その執念故か、5時42分、ウェーク島ピーコック岬沖にて退避中の
駆逐艦・如月に爆撃が命中、轟沈しました……。
如月ちゃんがあああぁぁぁぁぁぁッ!?
えぇ、言うまでもなくアニメ3話の元ネタですね。
疾風と同様、太平洋戦争開戦直後、初めての戦闘艦喪失となったわけです……。
そういえばこの戦いには追手(おいて)、疾風の未実装神風型が参加しており、
この後の第二次作戦では朝凪・夕凪の神風型駆逐艦も加わるのです。
つまり、形式的には神風型駆逐艦が勢揃いするのです!
いや、この作戦をやるとしても、実装されてせいぜい一隻でしょうけどね。
ともあれ、ここまで被害や妨害が拡大してしまっては仕切り直すわけにもいかず、
緒戦は快調であった日本軍の戦績に唯一泥のついた作戦となってしまったのでした。
第二次攻略作戦
惨敗を喫した第一次攻略作戦の失敗から、
続く二次作戦ではより徹底した戦力の集中が必須とされました。
わずか四機のF4F戦闘機に艦隊全てが翻弄された事実から、
航空戦力の強化をする必要に迫られました。
また、上陸におけるもたつきも指摘され、
いざという時は哨戒艇を擱座させてでも上陸を図るという覚悟が示されました。
真珠湾攻撃を終えた第一機動部隊を差し向けるよう具申が行われ、
グアム島攻略戦を終えた第六戦隊以下駆逐艦二隻と補助艦艇が合流。
第一機動部隊全軍を動かすのはコストに見合わないとされ、
第二航空戦隊および第八戦隊、第一七駆逐隊の一部が抽出されて送られました。
5月21日、上陸作戦の再出撃が行われました。
まずはニ航戦から発艦した艦載機が、千歳海軍基地航空隊が、
ウェーク島に容赦のない空爆を仕掛けていきました。
翌22日にも空爆が行われましたが、蒼龍攻撃隊が残存していたF4F戦闘機二機に待ち伏せを受け、
これによって水平爆撃の名手であった金井昇一等飛行兵曹機が撃墜されてしまいました。
この空戦でウェーク島の航空戦力は全滅したのですが、手痛い犠牲を払ってしまいました。
上陸部隊もウェーク島に接近を果たし、21時に上陸命令が可決。
一八戦隊は陽動を行い、第六戦隊は上陸支援と周辺警戒に努めました。
折り悪くこの日も海上は荒れていたため、前回の二の舞は断固としてしてはならないと
作戦前の宣言通り哨戒艇を海岸に突入させて擱座させ、強引に陸戦隊を上陸させたのでした。
橋頭堡を確保したことで、各艦から大発動艇が出立・上陸を果たしました。
こうして陸上戦が開始されたわけですが、同島守備隊の抵抗は激しく、
各隊での隊長戦死や小隊全滅が相次ぎました。
乱戦のため艦砲射撃を打ち込むわけにもいかず、23日に至っても戦線は膠着したままでしたが、
舞鶴特陸一個中隊が決死隊となって動き、捕らえた捕虜の誘導で奥地へと進撃、
飛行場まで辿り着いたところで海兵隊指揮官ジェームズ・デベル少佐を捕縛。
更には、ウェーク島守備隊指揮官ウィンフィールド・カニンガム中佐をも捕縛に成功しました。
白旗を掲げたジープに中佐を乗せて島中に降伏を訴えて周り、
10時40分に全島の制圧・降伏が宣言されました。
占領後
役目を終えた派遣組は帰投し、以後の島の防衛は陸戦隊が派兵されて行うことになりました。
多数の捕虜を抱えた状態となったため、米軍側もおいそれとこの島に手出しが出来ないまま
ウェーク島は終戦まで重拠点として機能し続けました。
この捕虜の取扱いに問題が多数あったようで、
上海への移送の際には数度に渡る反乱の結果、五名の処刑がなされたり、
現地への空爆の際に食料が燃えて不足したことから捕虜の処断が行われたり、
その際の脱走兵を捕らえて処刑したりということがあったようです。
1944年以降ともなると補給が滞るようになって、
この時期のどこの離島でもあったように病死者・餓死者が続出することになりました。
この時期にはもう日本の制海権は喪失しており、ウェーク島の重要性も消滅していました。
申し訳程度の散発的な攻撃がある程度で、守備隊はさながら生き殺しの状態にあったわけです。
終戦を迎え、おびただしい犠牲者を出した防衛戦は終結しました。
AL作戦(1942年6月3~7日)・アリューシャン方面の戦い
概要
ミッドウェー島攻略を期す南雲機動部隊によるMI作戦を支援するべく、
アリューシャン方面への進出をもってアメリカ海軍の戦力を誘引して囮となり、
同時にこの攻勢が「本気」であるがゆえに無視せざるものと印象付けるために、
アッツ島やキスカ島といった要衝を押さえにかかるというのがAL作戦の骨子でありました。
この方面を抑えておくことで、米海軍の本土侵攻を妨げるという目的もありました。
MI作戦と連動した第五艦隊の各支隊が、
ダッチハーバーとアッツ島・キスカ島を同時に攻略を行いました。
なお、この後に同島守備隊を残し、合流した第五艦隊でもってアダック島を目指す計画でしたが、
連動していたMI作戦が正規空母四隻を喪失するという大損害をもって失敗に終わったため、
AL作戦も中止せざるを得なくなってしまったのでした。
以後、占領下に置いたアッツ島・キスカ島の守備隊は地獄の防衛戦を続けていくことになります。
ダッチハーバー空襲
参加艦艇
北方部隊・第五艦隊(司令長官:細萱戊子郎中将)
旗艦・那智
雷 電
第四航空戦隊・第二機動部隊(司令官:角田覚治少将)
旗艦・龍驤 隼鷹
第四戦隊・第二小隊
高雄 摩耶
第七駆逐隊
曙 漣 潮
経過
1942年5月25日、角田中将の率いる龍驤以下第四航空戦隊が大湊警備府を出港し、
6月3日23時、ダッチハーバーに向けて第一次攻撃隊が発艦。
翌4日早朝に現着し、同米軍基地を爆撃しました。
続く二次・三次攻撃も行われ、艦艇や地上施設に被害を与えました。
艦これで言うところの2015年夏イベント・
E-2海域のほっぽ(北方棲姫)、もしくは3-5海域のあたりがコレにあたりますね。
なお、この時にRJちゃん(龍驤)の零戦がアクタン島に不時着・鹵獲されたことで、
対日戦における零戦の性能研究が進み、以後のアメリカ軍の躍進に繋がっていくことになりました。
ほっぽちゃんがゼロを欲しがる所以ですね。
何でか烈風も要求してきますが……。
もっとも、こちらも折りにつけプレゼント箱や菱餅や秋刀魚や食材を奪いに行くわけですが。
アッツ島攻略
参加艦艇
第一水雷戦隊(司令官・大森仙太郎少将)
旗艦・阿武隈
第二十一駆逐隊
初春 子日 若葉 初霜
経過
1942年5月28日、ダッチハーバー空襲と連動するように
大湊警備府を出港した阿武隈旗艦の第一水雷戦隊でしたが、
6月6日に到着したアッツ島には敵守備隊が存在せず、難なく同島を占拠することが出来たのでした。
キスカ島攻略
参加艦艇
第二十一戦隊(司令官・大野竹二大佐)
多摩 旗艦・木曾
第六駆逐隊
暁 響 帆風(未実装)
経過
1942年5月29日、こちらもダッチハーバー空襲と連動するように
大湊警備府を出港した木曾・多摩率いる第二一戦隊でしたが、
6月7日、やはりキスカ島に敵守備隊がいなかったためにやすやすと占拠することが出来ました。
なお、6月12日には爆撃により響が被弾しています。
7月5日の戦い
参加艦艇
旗艦・千代田
第十八駆逐隊
霞 霰(撃沈・潜水艦グロウラーによる) 陽炎(※作戦時は不在) 不知火
子日(撃沈・潜水艦トライトンによる)
経過
1942年7月5日、特殊潜航艇(甲標的)や水上戦闘機、陸戦隊を輸送中だった
水上機母艦・千代田と輸送船・あるぜんちな号を護衛していた
第一八駆逐隊(陽炎は不在)がキスカ島沖で
あの悪名高いガトー級潜水艦・グロウラーの奇襲を受けた戦いです。
この雷撃により霞と不知火が船体切断に陥る大損害を受け、
霰に至っては二発の被雷により轟沈となりました……。
また、同日にニア諸島はアガッツ島サボック岬沖を哨戒していた
阿武隈旗艦の第一水雷戦隊麾下の第二一駆逐隊でしたが、
タンバー級潜水艦トライトンの奇襲を受け子日が被雷、
船体断裂の後、わずか7分で轟沈に至ったのでした……。
この日、違う場所で二隻の駆逐艦が撃沈されたことになります。
キスカ島砲撃
参加艦艇
朧(撃沈) 初春
経過
1942年8月7日、米海軍巡洋艦隊旗艦・重巡インディアナポリスとルイスビル、
軽巡ナッシュビル・ホノルル・セントルイス以下、駆逐艦四隻が
キスカ島へ向けて艦砲射撃を行いました。
こうしてこの海域の制海権を握った米軍はAL作戦にて攻略ならなかった
アダック島やアムチトカ島に飛行場を建設、
アッツ島やキスカ島に空襲を行うようになっていきます。
これら島嶼群に守備力増強を行うべく輸送が繰り返されることになりますが、
1943年10月17日、輸送作戦に従事していた朧と初春が空襲を受け、
初春は大破、朧は撃沈に至ったのでした……。
アッツ島沖海戦・コマンドルスキー諸島海戦
参加艦艇
北方部隊・第五艦隊(司令長官:細萱戊子郎中将)
旗艦・那智 摩耶 多摩
第一水雷戦隊(司令官・森友一少将)
旗艦・阿武隈
薄雲(未実装) 雷 電 若葉 初霜
1943年3月26日(日本時間では、日付変更線を跨ぐため27日)、
コマンドルスキー諸島近海にてアッツ島へ輸送作戦中だった第五艦隊が米軍艦隊と遭遇、
戦闘が行われました。
米艦隊は旗艦・軽巡リッチモンド、重巡ソルトレイクシティ、
ベイリー、コグラン、デイル、モナガンの駆逐艦四隻からなる艦隊で、
戦力的には拮抗するものと思われました。
戦闘開始前に電が米艦隊の影を捉え阿武隈に報告するも
輸送船との見間違いとして一蹴されたのを始め、
水雷戦隊の司令部が予期せぬ会敵で混乱に陥った上、
燃料節約のためにボイラーを一缶落としてたり、
那智では慌てて主砲電源を落としてしまい主砲方位盤が機能せず、
各砲塔ごとに個別に狙いを定めるハメになったりと、人為的事故が多発する始末でした。
海戦では、那智とソルトレイクシティが相打ちになるようなカタチで被弾。
那智は健在ながらも各部が故障した状態となり、一方のソルトレイクシティは旗艦漏水、
旗艦停止に陥ったため僚艦は煙幕を炊いて離脱にかかりました。
追撃する日本艦隊でしたが、
ただ米艦隊を追従するだけの機動で一向にその差が縮まりませんでした。
戦闘初動の混乱を収めた水雷戦隊が突出、米艦隊に迫りますが、
米艦隊は煙幕や雷撃を駆使した見事な機動で回避を続けました。
しかし、ソルトレイクシティに那智の砲撃がヒット、遂にその行き足が止まる事態となりました。
米艦隊の決死の妨害や突撃により時間を稼ぎ、瀕死のソルトレイクシティの旗艦が復活を果たし、
敢えなく逃走を許してしまうことになったのでした。
全体的に、日本艦隊の稚拙さと、米艦隊の勇猛さが目立った戦いだったように思われます。
なお、この戦いで辛くも生き残ったソルトレイクシティは、
その最期がクロスロード作戦での原爆実験の標的艦でした。
色々と因縁のある艦ですので、実装が楽しみではありますね。
この戦闘で米艦隊を取り逃したばかりか、
那智の損傷や空襲への懸念により帰投したため輸送作戦が失敗に終わった結果、
アッツ島への補給が滞ることになり、後の玉砕へと繋がっていくことになります……。
アッツ島の戦い
参加艦艇
第一水雷戦隊
(阿武隈) 旗艦・木曾
沼風(未実装)
神風
薄雲(未実装) 白雲(未実装)
若葉 初霜
朝雲
長波
経過
戦艦ネヴァダ・ペンシルベニア・アイダホ、重巡サンフランシスコ・ルイビル・ウィチタ、
護衛空母ナッソーらを基幹とした第51任務部隊がアッツ島奪還を目的とするランドクラブ作戦を発動し、
1943年5月12日、一年中霧に包まれた同島の天候回復を待って上陸を開始しました。
この時、アッツ島にいた伊31乗艦の第五艦隊参謀・江本弘少佐が海軍部隊の指揮を取り、
米軍上陸の報を打電しました。
地上戦は深い霧の中、艦砲射撃や拠点防御が折り混ざりながらの
一進一退の攻防が繰り広げられましたが、補給や輸送が滞っていたために多勢に無勢、
艦砲射撃や航空爆撃により次第に追い詰められていくことになります。
海軍も救援を送りますが、5月11日の木曾以下、白雲・若葉の艦隊で幌筵からアッツ島に向かいますが、
霧のために水上機の発艦が叶わず、視界不良のため帰投することになりました。
5月13日には、江本少佐をアッツ島に送った潜水艦・伊31および伊34がキスカ島から、
幌筵からは伊35がアッツ島に向かいましたが、
米艦隊への雷撃は命中せず、逆に伊31は対潜攻撃により撃沈、他二隻も退避することになりました。
5月15日にも摩耶が突入するも、やはり霧で視界が利かず撤退、帰投に至ります。
舞鶴にて整備を行っていた阿武隈はこの事態に急遽出港し、現地へと向かいました。
一刻も早い増援が求められるところでしたが、
5月21日、大本営はアッツ島増援の中止を決定してしまいます。
折しも海軍甲事件での山本五十六大将や、
連合艦隊司令長官・古賀峯一大将の訃報と共に大本営発表にて
アッツ島の守備隊を事実上見捨てる声明が出されたのでした。
この時のアッツ島守備隊に打電された内容は、ほぼ玉砕を強いるようなものでありました。
基地航空隊に寄る米艦隊への攻撃は幾度も悪天候に遮られ続けるも、
5月23日に一度だけ天候が回復し、空爆を敢行しますが駆逐艦一隻を撃沈したに留まりました。
5月25日には、阿武隈麾下の第一水雷戦隊によるアッツ島救援艦隊が幌筵出港しますが、
結局は悪天候により突入は叶いませんでした。
運命の5月29日、聯合艦隊機動部隊の派遣も中止が決定し、
後がなくなったアッツ島守備隊は遂に玉砕を決意してしまいます。
司令官・山崎保代陸軍大佐以下、壮絶な突撃の結果、ほぼ皆殺しに近い被害となってしまいました……。
江本少佐以下四名の士官は伊24による救援を期待して特攻には加わりませんでしたが、
6月になって幾度もの突入にも関わらず、最後は11日に同艦も撃沈の憂き目に遭います。
戦後、江本少佐以下四名の士官は遺体で発見されたとのことです……。
結果としてはどうしようもなかったわけではありますが、
全てが霧のせいでブチ壊される感じは、この後のキスカ島救援でも幾度も味わうことになります。
キスカ島撤退作戦(ケ号作戦)
参加艦艇
主隊・督戦(北方部隊指揮官・第五艦隊司令長官・河瀬四郎中将 艦長・神重徳大佐)
多摩
第一水雷戦隊(司令官・木村昌福少将)
巡洋艦部隊
旗艦・阿武隈 木曾
収容駆逐隊
第九駆逐隊
薄雲(未実装) 響 朝雲
第十駆逐隊
秋雲 夕雲 風雲
警戒駆逐隊
第二十一駆逐隊
若葉 初霜
第二十七駆逐隊
五月雨 島風
第三十一駆逐隊
長波
補給隊
日本丸 国後
応急収容隊
粟田丸
経過
アッツ島守備隊の玉砕に前後して、
同様に危機に陥ったキスカ島守備隊を救出しようとする一連の作戦行動です。
正式名称は、ケ号作戦(ケは乾坤一擲の意)です。
アッツ島守備隊玉砕に先駆けての1943年5月27日、
伊7によりキスカ島から60名を乗せての救出に成功。
正式にケ号作戦が発令される5月30日以前に、事実上作戦は進行していたことになります。
作戦前段階では潜水艦隊による救出が検討されていましたが、
米軍の制空・制海権下での作戦行動は困難を極め、
次々に投入した潜水艦が撃沈されていくことになります。
6月中の作戦行動により900名近いキスカ島守備隊を救出することは叶いましたが、
これ以上は無理との判断が下され、6月23日をもって前段作戦は不本意ながら終了することになりました。
翌24日、再度水雷戦隊の突入による救出が後段作戦として提示されました。
結局はこの地特有の濃霧に紛れて行くしかないという結論のもと、
強力な米海軍戦力を避け、霧による視界不良は電探を装備した艦艇によって補うことになりました。
もっとも、米海軍の保有するレーダーの方が質・量共に勝っていたのではありますが……。
鍵は、最新鋭甲型駆逐艦・島風の働きにかかっていると言える状況でした。
7月10日、第一水雷戦隊司令官に着任した木村昌福少将のもと、
重巡・那智 摩耶 軽巡・多摩 駆逐艦・野分 波風が出撃しました。
木村少将は逼迫した燃料事情ゆえ(作戦行動二回分しか残っていない)、
重巡の参加は足を引っ張ると難色を示したものの、河瀬司令長官に押し切られるカタチとなったようです。
7月12日、突入予定日となって天候が回復してしまったため次の日にずらしましたが、
13日ばかりか14・15日も霧が晴れてしまったために突入は断念せざるを得ない状況となりました。
木村少将の「帰ろう。帰ればまた来られるからな」
という言葉はこの時のものです。
木村少将がこの地に赴任する以前、ソロモンはビスマルク海海戦、
いわゆるダンピール海峡の悲劇により
無謀な輸送船団の突入により全滅を喫した苦い経験が慎重策を取らせたことになります。
7月18日に幌筵に帰投した救援艦隊でしたが、
当然のように指揮を取った木村少将は第五艦隊司令はおろか
大本営からも叱責を受けることになります。
このまま夏も盛りになればますます霧が晴れる日が多くなることに加え、
事実上あと一回分しか燃料の備蓄がないことが上層部の焦りを生んでいたのでした。
当の木村少将は批判などどこ吹く風で静かに時を待っており、
麾下の各艦乗員もこれに従ったとされています。
7月22日、幌筵の気象台が霧の発生を予報、直ちに出撃準備が進められました。
今回の出撃には「督戦」として多摩に
第五艦隊司令長官・河瀬中将以下第五艦隊司令部が乗り込み、同行することになりました。
もっとも、いざという時は囮役として敵を引き付ける役割でしたが。
出港時点からこの海域は濃霧に包まれており、各艦はバラバラに目的地に向かうことになります。
7月25日、国後を除く全艦が集結を果たすものの、遅れて到着した国後が阿武隈に衝突。
これに混乱した初霜が若葉と衝突、長波にも接触するという
絵に描いたような玉突き事故が発生してしまいます。
損傷の酷かった若葉は単独で帰途に就き、第二一駆逐隊司令は島風に移乗。
傷を負った初霜は、補給隊の護衛に回されました。
突入予定日の7月28日は、第一次作戦と同様に天候が回復してしまったため、
またも決断を迫られることになりました。
多摩艦長の神重徳大佐は後の天一号作戦(沖縄特攻)を立案したように突撃脳であったため、
この時も無謀な突入を促したとされています。
一方で、第一水雷戦隊司令部付き気象観測班は
潜水艦からの観測データやキスカ島守備隊からの報告をまとめた結果、
翌日29日に濃霧の発生確率・大との予測を出しました。
木村少将はようやく訪れた好機に突入を決意していたようで、
同行したタンカーからはおろか乗艦・阿武隈からも燃料を抜き、駆逐隊に分け与えたといいます。
7月29日、とうとう艦隊はキスカ島への突入を決行します。
島の上陸地点を塞ぐように配置された米艦隊との接触を避けるようにして、
西側から大きく迂回する航路で侵入。
その際、阿武隈が艦影を発見し島風と共に雷撃を行いましたが、
これは湾内にあった小キスカ島を見間違えたとのことです。
待ちわびた救出艦隊の到着の報を受け、守備隊全員がキスカ湾に集結を開始します。
同日13時40分、湾内に投錨した艦隊でしたが、
この時に丁度良く霧が晴れるという幸運に恵まれました。
この期を逃さず迅速な救出行動が行われた結果、何と一時間を切る収容時間を叩き出したのでした。
収容に用いた大発動艇を捨て置き、守備隊も本来何があっても捨ててはならぬとされていた
小銃をも投棄する判断がなされたことが収容時間の短縮に繋がったとされています。
守備隊が持ち出したのは着ている衣服の他には、戦死した兵士の遺骨や遺品のみだったと言われます。
守備隊全員の収容完了後、直ちに艦隊は脱出を図ります。
今度はまた霧がかかるという幸運により、艦隊は米艦隊に発見されることなく勢力圏からの離脱に成功。
7月30日5時をもって、困難を極めた救出作戦は完了しました。
帰路の途上で米潜水艦との遭遇がありましたが、
米艦と誤認させる偽装工作を施していたことが功を奏し、互いに素通りで済みました。
7月31日から8月1日にかけて、艦隊は幌筵に無事帰投を果たします。
気象観測に出ていた潜水艦隊も8月4日までに全艦が帰投し、
世にも珍しい無血による撤退戦が終了したのでした。
それはまさに「奇跡の作戦」と呼ぶに相応しい、
幸運とそれを逃さぬ適切な判断の連続を成功させた偉業でありました。
救出作戦に携わった将兵は「アッツ島の英霊の加護があった」「天佑神助の賜物」と述べ、
実際のところ非常に都合の良い幸運や、
この時は知る由もないですが米艦隊側に不思議な現象が起きてもいました。
燃料や物資は欠乏していましたが、集結した戦力には比較的余裕があったことも大きかったでしょう。
しかしながら、実際はアッツ島守備隊をを犠牲にする代わりに
キスカ島守備隊を救出するという妥協の産物でもあり、何かが違っていれば立場は逆であったか、
あるいはどちらも救出に失敗していた公算が高かったのです。
それでもなお、現場の将兵が死に物狂いで成功を勝ち取ったという事実は否定することは出来ません。
コテージ作戦
奇跡の作戦・キスカ島撤退の裏側、米軍側の視点になります。
7月23日、キスカ島近海に布陣する米艦隊は
レーダーに捉えた日本艦隊と思しき反応により出撃しますが、これは完全な誤認であったとされています。
7月26日、まさにキスカ島救援艦隊が潜んでいる時にも
レーダーが艦隊らしき影を捉えましたが、わずか40分で反応が消えてしまいました。
不可思議なのは、重巡サンフランシスコ以下駆逐艦のレーダーには何の反応もなかったことです。
日本艦隊でもこの動きは察知しており、同士討ちでもしているのではないかと思われていたそうです。
後にこのことを知った者は、「アッツ島で散った英霊が見せた幻」とうそぶいたと言われます。
7月28日の日本艦隊によるキスカ湾突入時、
先の誤認射撃で敵艦隊を撃滅したものと思い込んだ艦隊司令長官トーマス・C・キンケイド中将は、
補給と整備のため艦隊を一時撤収させてしまいました。
7月29日、米艦隊が不在であることは知る由もないながら、日本艦隊は決死の救出作戦を成功させました。
7月30日、脱出した日本艦隊と入れ替わるカタチで、
戻って来た米艦隊はもはや無人のキスカ島の封鎖を続行することになりました。
艦砲射撃と空爆が再開されましたが、
妙に手応えのないことを訝しんだ司令部は好機と見て、上陸作戦を決行する判断を下しました。
そうして発令されたのが、コテージ作戦となります。
8月15日、既にキスカ島の守備隊は脱出に成功し
もぬけの殻になっている島に対する上陸・再占領を目的とし、
徹底的な艦砲射撃や空爆の後に濃霧の中、一斉に上陸を果たしました。
存在しない守備隊と交戦に緊張した兵士たちは各所で同士討ちを起こし、
百数十名にも及ぶ死傷者を出してしまいました。
霧が晴れて、改めて米兵が目撃したのは、
遺棄された僅かな装備と数匹の軍用犬だけであったといいます。
また、撤収する守備隊の軍医さんが兵舎前にいたずらに残した
「ペスト患者収容所」の立て看板に米兵はパニックに陥りました。
こうして、「史上最大の最も実戦的な上陸演習」は終了したのでした。
MI作戦・ミッドウェー海戦(1942年6月5~7日)
参加艦艇
第一機動部隊(司令長官・南雲忠一中将)
第一航空戦隊(司令官・南雲忠一中将)
旗艦・赤城(撃沈) 加賀(撃沈)
第二航空戦隊(司令官・山口多聞少将)
蒼龍(撃沈) 旗艦・飛龍(撃沈)
第三戦隊・第二小隊(司令官・三川軍一中将)
榛名 霧島
第八戦隊(司令官・阿部弘毅少将)
旗艦・利根 筑摩
第十戦隊(司令官・木村進少将)
旗艦・長良
第四駆逐隊(司令・有賀幸作大佐)
野分 嵐 萩風 舞風
第十駆逐隊(司令・阿部俊雄大佐)
秋雲 夕雲 巻雲 風雲
第十七駆逐隊(司令・北村昌幸大佐)
浦風 磯風 浜風 谷風
聯合艦隊(司令長官・山本五十六大将)
第一戦隊
旗艦・大和 長門 陸奥
第三水雷戦隊(司令官・橋本信太郎少将)
旗艦・川内
第十一駆逐隊(司令・荘司喜一郎中佐)
吹雪 白雪 初雪 叢雲
第十九駆逐隊(司令・大江覧治大佐)
磯波 浦波 綾波 敷波
空母隊(司令・梅谷薫大佐)
鳳翔 夕風(未実装)
特務隊(司令・原田覚大佐)
千代田 日進
第一艦隊(司令長官・高須四郎中将)
第二戦隊
扶桑 旗艦・山城 伊勢 日向
第九戦隊(司令官・岸福治少将)
北上 大井
第二十四駆逐隊(司令・平井泰次大佐)
海風 江風
第二十七駆逐隊(司令:吉村真武大佐)
夕暮(未実装) 白露 時雨
第二十駆逐隊(司令・山田雄二大佐)
白雲(未実装) 朝霧(未実装) 夕霧(未実装) 天霧
第二艦隊(司令長官・近藤信竹中将)
第四戦隊・第一小隊(司令官・近藤信竹中将)
旗艦・愛宕 鳥海
第三戦隊・第一小隊(司令官・三川軍一中将)
金剛 比叡
第五戦隊(司令官・高木武雄中将)
妙高 羽黒
第四水雷戦隊(司令官・西村祥治少将)
旗艦・由良
第二駆逐隊(司令・橘正雄大佐)
村雨 夕立 春雨 五月雨
第九駆逐隊(司令・佐藤康夫大佐)
三日月 朝雲 峯雲 夏雲(未実装)
支援艦隊
第七戦隊(司令官・栗田健男中将)
最上 三隈(撃沈) 鈴谷 旗艦・熊野
第八駆逐隊(司令・小川莚喜大佐)
朝潮 荒潮
護衛艦隊
第二水雷戦隊(司令官・田中頼三少将)
旗艦・神通
第十五駆逐隊(司令・佐藤寅治郎大佐)
黒潮 親潮
第十六駆逐隊(司令・渋谷紫郎大佐)
初風 雪風 天津風 時津風
第十八駆逐隊(司令・宮坂義登大佐)
霞 霰 陽炎 不知火
第十一航空戦隊(司令官・藤田類太郎少将)
千歳 神川丸(未実装) 早潮(未実装) 明石
先遣艦隊
第六艦隊(司令長官・小松輝久中将)
香取
第八潜水戦隊
愛国丸 報国丸
伊15 伊17 伊19 伊25 伊26 伊174 伊175 伊122
第三潜水戦隊
靖国丸
伊168 伊169 伊171 伊172 伊9 伊123
第五潜水戦隊
りおで志゛やねろ丸
伊156 伊157 伊158 伊159 伊162 伊164 伊165 伊166 伊121
経過
ドーリットル空襲
1942年4月18日、空母エンタープライズとホーネットを中核とする第16任務部隊が日本本土に接近、
ジミー・ドーリットル中佐率いるB-25爆撃隊により
東京・名古屋・大阪の各主要都市が爆撃を受けるという事件がありました。
これが世に言うドーリットル空襲で、本土爆撃というただならぬ事態に
いよいよもって米軍太平洋艦隊をどうにかしなければという機運が高まったわけです。
艦これ的にはあの懐かしき2015年夏イベE-6海域にて、本土強襲というカタチで再現されました。
また、2016年秋イベではまさにこのドーリットル空襲から始まり、
その大元である空母群(コードネーム・シャングリラ)を追うことになり、
その先にはまさかのクロスロード作戦が行われたビキニ環礁にて
最終決戦が行われるというドラマがありました。
なお、史実ではこのシャングリラに対する皮肉か、
本当にシャングリラという空母が建造されたりもしました。
ともあれ、以前から計画されていたミッドウェー攻略作戦でしたが、
実際の被害が出たことにより一気に現実味を帯びたのでした。
とはいえ実行するにはかなり無謀というか賭けの要素が強い以上、綿密な準備が必要とされたのでした。
やるからには本気の布陣であることが肝要であり、帝国海軍ほぼ全力出撃が予定されることとなりました。
AL/MI作戦
ミッドウェー攻略によって太平洋艦隊を釣り出し、これを撃滅することが作戦目的でありました。
陽動のためにアリューシャン方面にも艦隊を派遣し(AL作戦)、
本命のMI作戦を支援する形式になりました。
……むしろ、本土空襲を受けて
機動部隊が釣り出されているような気もしないではないのですけれどね。
それと、必要があったのはわかりますが、AL作戦とMI作戦とで戦力の分散がされてしまいましたね。
この時点ではまだ空母戦力に余裕はあったわけですが、
5月7~8日に行われた珊瑚海海戦にて世界初の空母機動部隊同士の激突があった際、
空母ホーネットを撃破寸前まで追い込んだものの
こちらも祥鳳を喪失、翔鶴大破に瑞鶴飛行隊の損耗と
一気にMI作戦参加予定の空母戦力が削られてしまったのでした……。
他、米軍艦隊に対する索敵不足やら情報統制の不徹底やら図上演習での舐めプやら、
ボロボロ問題点がありましたがね。
何より、ミッドウェー島を攻略するのか、米軍機動部隊を叩くのか、
どちらを主眼に置くのかが決まっておらず、結果的に作戦目的が曖昧なまま
二兎を追うカタチになってしまったのがいけなかったとされています。
このへんの二重目的構造は、それこそ真珠湾攻撃から終戦まで
ずっと日本軍の悪癖として残ることになりました。
ミッドウェー島空爆
6月5日1時30分、ミッドウェー島に対する空爆が開始されました。
6月7日に上陸予定の第二艦隊を援護するために、ここで島の防衛力を削っておく必要がありました。
利根・筑摩からは索敵機が出されましたが、
どうもこのあたりからして調子が良くなかったようですね。
3時16分、ミッドウェー島の防衛部隊との戦闘が開始され、
約15分間の空戦の結果、日本側の勝利となりました。
そのまま空爆が実行されましたが、
その効果は不充分であったとされ、「カワカワカワ」の第二次攻撃要請が出されました。
事実、基地航空隊が南雲機動部隊に襲いかかり
、これは撃退に成功しましたがミッドウェー基地は顕在であることが立証されました。
待機中の艦載機を対地爆装して、第二次攻撃の準備にかかりました。
雷装から爆装への転換作業につき、甲板上には多数の爆発物が並ぶことになっていたと言われています。
また、山口少将率いるニ航戦は蒼龍・飛龍に関しては、
米国機動部隊の接近を鑑みて転換作業を行わなかったとも言われます。
実際、この時点で南雲機動部隊の位置情報は察知されており、
今まさに航空攻撃隊が向かっているこころだったのですが。
それを知らせる索敵に関しては、艦攻から割いて索敵に当たらせるのはもったいないとのことや、
主要な索敵を担う利根・筑摩のカタパルトが不調で索敵機の数を揃えられず索敵網に穴があったり、
米国艦隊直上を通過した索敵機が雲の上を飛んでいたため発見出来なかったり、
敵艦載機を発見するも報告を怠ったり(無線が駄目だったとも)、
コンパスが故障していて正確な位置情報を伝えられなかったり、と……うn。
ミッドウェー海戦
5時30分、ようやく米国空母の影を捉えたことで、
このままミッドウェー島への第二次攻撃を行うか、
それとも米国空母への攻撃を行うかの選択が迫られます。
丁度、第一攻撃部隊が帰還途上にありましたが、
山口少将はこれを見捨ててでも攻撃隊の発艦を急ぐべしとの意見を上奏。
しかし、南雲中将は虎の子の攻撃隊の損失を惜しんでこれを却下しました。
結果として、換装作業も相まって迎撃・攻撃隊の発艦は遅れることになりました。
サッチ・ウェーブ
6時20~7時10分にかけて、
ホーネット・エンタープライズ・ヨークタウンから発艦した艦攻隊の攻撃が開始されましたが、
幸い被害はありませんでした。
この時、後に零戦に対する画期的な攻略法となる
サッチ・ウェーブが、ジョン・サッチ少佐により実践されていました。
また、この艦攻隊の迎撃のために艦戦隊の高度が下がっていたことが後の布石となってしまいます。
敵機直上、急降下
雲によって日本艦隊を発見出来ずに彷徨い、
燃料の乏しくなっていたクラレンス・マクラスキー少佐率いるエンタープライズ艦爆隊でしたが、
潜水艦ノーチラスを攻撃した帰り道にあった駆逐艦・嵐を発見し、
その行き先に標的がいると踏んで方向転換をしました。
マクスウェル・レスリー少佐率いるヨークタウン艦爆隊も同時に日本艦隊を発見し、
艦爆隊の同時攻撃が実現しました。
雷撃隊への対応でこれに対応出来なかったため、
まずはエンタープライズ隊が空母・加賀への急降下爆撃を敢行、四発の命中弾を浴びせました。
ヨークタウン隊もこれに続き、空母・蒼龍へ三発の命中を成功させました。
連携の失敗でエンタープライズ隊よりはぐれていた
ベスト大尉・クルーガー中尉・ウェーバー中尉の三機が空母・赤城への爆撃を行い、
二発の命中弾が甲板上の爆弾や魚雷に引火して大爆発を起こす結果となりました。
わずか6分間に立て続けに空母三隻に対する爆撃が成功し、
加賀・蒼龍は撃沈、
赤城は航行不能により第四駆逐隊による雷撃処分となりました。
飛龍の反撃
ただ一隻残った飛龍は反撃を開始、
8時20分には帰還するエンタープライズ爆撃隊を発見し、それから空母ヨークタウンを補足。
急降下爆撃により小林隊長機を含む13機の艦爆を喪失するも、
三発の命中弾でもってヨークタウンは爆発炎上することになりました。
しかし、ヨークタウンは早急なダメージコントロールにより機能を取り戻したのです。
その頃には、他の米国空母も補足されてはいましたが。
同時刻、図らずも味方空母の位置を敵に教えてしまった嵐は、
ヨークタウン雷撃隊員を救助、これを尋問したところ、
ここに至りようやく米国戦力がエンタープライズ・ヨークタウン・ホーネット他
巡洋艦六隻、駆逐艦十隻という全容を掴んだのでした。
米国空母の搭載機数や、真珠湾にて撃沈したはずの戦艦群が復旧中であることも知らされました。
飛龍の第二次攻撃隊は、空襲中にミッドウェー島より帰還した艦攻隊が間をおかず再出撃したものでした。
この時、友永丈市大尉の隊長機は被弾して燃料タンクに穴が空いた状態でしたが、
構わず片道燃料で帰らぬ出撃したとされます。
友永隊と橋本隊の波状攻撃をヨークタウンは受け、
友永隊の攻撃はサッチ機による友永機の撃墜を始め全機喪失によって失敗。
橋本隊は一旦、雲の中に退避した後、第二波攻撃により魚雷二発の命中に成功、
橋本隊長の犠牲と引き換えに今度こそ航行不能に追い込みました。
一方で飛龍もエンタープライズ隊とヨークタウン隊の波状攻撃を受け、
エンタープライズ隊の攻撃は退けたものの、続くヨークタウン隊の爆撃四発が命中しました。
大破炎上する飛龍は復旧と乗員退避に努めましたが、11時30分、総員退艦命令がなされました。
山口少将および加来艦長は沈みゆく飛龍に残り、駆逐艦・巻雲による雷撃処分による最期を遂げました。
ここに、南雲機動部隊は完全な壊滅となったわけです。
聯合艦隊、撤退
後方に位置していた聯合艦隊は、軽巡・長良に乗って退避してきた南雲中将の到着により、
この後、水上艦による夜戦を挑むか否かの選択に迫られます。
米国空母撃破数の誤認や索敵情報の錯綜、空母機動部隊の壊滅による混乱などが合わさり、
結果として夜戦は見送られることになります。
ただ、17時30分、伊168潜水艦に損傷した空母(ヨークタウン)の追撃を任じるに留まりました。
伊168は密かな追撃の結果、6月7日に曳航されてハワイに向かうヨークタウンを補足、
雷撃を敢行し見事、空母ヨークタウンおよび
駆逐艦ハムマンを撃沈することに成功したのでした。
ミッドウェー島の攻略を優先したカタチになりますが、元より占領し続けるのは困難であったため、
結局はミッドウェー島攻略も中断し、聯合艦隊は無念の撤退に移ることになりました。
23時55分、MI作戦の中止と失敗が決定したのです。
6日4時30分、軽空母・鳳翔の九六艦攻が雷撃処分された飛龍の甲板が漂流しているのを発見し、
その上に生存者が乗っていることを報告しました。
駆逐艦・谷風が再度の飛龍への雷撃処分と生存者の救出に向かい、
その途上で空襲を受けるも無事生還を果たしました。
三隈、撃沈
支援艦隊第七戦隊はミッドウェー再攻略を下命されるも、
中止の報を受けて転進することになりましたが、
潜水艦タンバーとの遭遇により三隈と最上が衝突事故を起こし、
最上は艦首切断の被害を被ってしまいました。
6月7日5時、退避する最上・三隈の第七戦隊・第二小隊は駆逐艦・朝潮および荒潮と合流。
6時30分、エンタープライズとホーネットから放たれた爆撃隊が艦隊を襲い、
第一波により最上・三隈ともに一発づつの被弾を受け、
それから三隈は敵機を引きつけるべく単独での航行に移りました。
7時、ホーネットの第二波攻撃隊により三隈は袋叩きとなり、
搭載した酸素魚雷に引火、爆発炎上となりました。
総員退艦がなされ、筏で漂流する三隈搭乗員の救助に朝潮・荒潮が到着しましたが、
救助中に米軍機による爆撃および機銃掃射で多数の犠牲者が出てしまいました。
日が沈み、米軍機の脅威が去った後に三隈の安否確認に向かった朝潮でしたが、
その姿はどこにも確認出来ませんでした……。
こうして、聯合艦隊の撤退中に三隈は撃沈されてしまったのです。
MI作戦の失敗の原因は多数ありますが、
米軍側も同じくらいのミスを重ねながらも天運があったとはいえ勝利しています。
良く言われているのは日本軍の油断と慢心ではありますが、
充分勝てるだけの戦力を用意しながらも
事前準備やその運用で致命的な失敗を重ねてついぞ挽回出来なかったのに対し、
絶望的な戦力差を前に死に物狂いで準備し事に臨んだ米軍側と明暗が別れた
――といったところでしょうか。
珊瑚海海戦で負ったヨークタウンの早急な復旧と、
結果的に撃沈されたとはいえダメコンによる早期復旧を果たしたことに
現れているのではないかと思います。
まとめ
あー疲れた~。
簡単にとはいえ、まとめるのは苦労しまっせ。
各項目で上げた、春イベの史実艦予想のまとめを貼っておきます。
各々も改めて個別に貼っておきます。
Excelのファイルも置いておきます。
画像データに直す場合は、pdfファイルで保存した後、画像編集ソフトに読み込ませて
jpgなりpngなりで保存し直せば大丈夫です。
果たしてこの予想、当たるでしょうか……?
よしんば外れたとしても、以降の実装される機会に流用すれば良いですよね♪
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